【第1幕:60歳、先生になります!】①
60歳、小学校の先生になるなんて、誰が想像しただろう。
そのまさかの本人が、良元花(よしもとはな)である。子育て経験なし。教員経験なし。老後資金なし。広告業界でコピーライターとして数十年、華やかなバブルの波を乗りこなし、「面白ければすべてよし」の世界で生きてきた。おまけに学校生活も社会生活も苦手なアウトロー。少なくとも20歳の時なら、先生なんて、将来絶対ならない職業選手権ナンバーワンだったはずである。
でも今、立っているのは、兵庫県のとある市にある、やけにフォトジェニックな小学校の前だ。スニーカーのひもは、いつもよりキュッと強めに結んでいる。理由はひとつ――これから“先生”として、校門をくぐるからだ。
バスの停留所に降り立つと、ペールグリーンの風が鼻をくすぐった。すんと澄んだ生まれたての空気がおいしい。息を大きく吸い込んだ。初めて降り立つ土地なのに、なぜか懐かしい香りがする。クリスタルブルーの空がどこまでも広がり、ホイップクリームのような雲がのほほんと浮かんでいる。遥か遠くには、水彩画のように淡くスモーキーな山並みがゆるやかなカーブを描いている。深い緑の木々がサワサワと生い茂る公園からは、小鳥のさえずりと春休みの子どもたちの歓声がこだまする。そうか、ここはハナが生まれ育った、千里ニュータウンに似ているのだ。
石段をトントンとかけあがると、瀟洒な佇まいの阪急オアシスのスーパーマーケットが現れた。テラスには、グリーンのパラソルと白いテーブルが何組か置かれ、散歩中の老夫婦がくつろいでいる。まるでリゾートホテルだ。
テラスの前には綺麗に舗装された石畳の小道がまっすぐ山の方へと続き、大型犬を散歩させる初老の男性や仲睦まじくウォーキングする夫婦。その両サイドには綺麗に手入れされた木々と花々。いつかアメリカ映画で見たようなパステルカラーの色とりどりの邸宅が整然と立ち並ぶ。
おいおい、ビバリーヒルズかよ。ホントにここ日本なの?
てか、なんて幸福感に満ちた町だろう。これって幼い頃、絵本や童謡の中で見た「良い子の住んでる良い町」やん。もしくはテーマパークかアウトレットモールか。確かにちょっと作りものっぽさは鼻につくかもなぁ…。ハナは心の中でいくつもツッコミを連発して毒づきながらも、内心この町を気に入っていた。
かつてバブルな青春時代を謳歌した彼女にとって、このバブリー、いやビバリーなハイソ臭ぷんぷんの町は、ドストライクの好物だった。後から聞いた話だが、この辺りは実際、近くの「美波里ヶ丘」の地名をとって「ビバリーヒルズ」とも呼ばれる邸宅街だそうだ。ハナの妄想にも近い観察も、あながち外れているわけではない。
こんな町なら、住んでいる人々も、さぞかしストレスフリーだろう。もちろん、子どもだってタケノコみたいにすくすく素直に育つに違いない。そして、そこに毎日通う私って、どうよ。もう最高にごきげんじゃないか。彼女の単細胞な脳は、オキシトシンの幸せオーラで満たされ、色とりどりのお花畑に占領されていた。なんならモンシロチョウやモンキチョウも舞っていたかもしれない。
「ん? で、学校はどこ?」
町並の妄想に心奪われて、ふと現実に戻ると自分の立ち位置を見失っていた。
手元のアイフォンのGoogleマップをちゃんと見ているはずなのに…である。そこは、シニア世代の“あるある“である…。
「すみません。山ノ手小学校って、この辺だと思うんですが、どっちの方向ですか」
花は向こうから足早に歩いてきた中学生らしき制服姿の少年に声をかけた。
「あ…あれです。ほら、公園の向こうに見えている」
不意をつかれた少年は少し慌てながらも、口早に案内してくれた。きっと春休みの部活か何かに急いでいる途中だったろうに。
「あー、あれですね。ご親切に、ありがとうございます」
花は相手の状況も考えずに声をかけた自分の非礼に気づき、バツが悪そうに礼を言った。
昔から場の空気を読めず、相手の都合も考えず、自分都合で衝動的に行動してしまう悪いクセは、この歳になっても治らない。いや、むしろ加齢とともにひどくなっているかもしれない。もし成長があるとすれば、事後にそれと自覚して、相手の背景をあれこれ想像して反省するようになったことだ。
もしかしたら、あの少年、この小学校の卒業生だったかもしれない。だから親切に教えてくれたのではないか。いや、そうでなくても、きっと「困っている人には親切にしなさい」的なええとこの教育を受けて育っているに違いない。無粋で唐突な質問に嫌な顔ひとつせず答えてくれるなんて、なんと良心的な少年だろう。そして自分はなんと無神経な人間なんだろう…。
花は自戒の念を込めて、スニーカーの紐をさらに強く結び直した。そして少年が教えてくれた方向を目指した。
なるほど、その先には、真ん中に時計台がある、ちょっと古びた白亜の校舎が見えてきた。進んでいくと、それらしき校門。その向こうには、ネット情報にあった通り、宝山市で一番大きいと言われる広々とした運動場。そして、校門の前には、やがて入学する新一年生の新しい門出を祝うかのように満開の桜が…。
花は桜の花が好きだ。まるで赤ちゃんの笑顔のように、ふわりやわらかく香るそのオーラ。無重力に舞い降りてくるその無垢なオーラをすくいとるように、そっと手のひらを手向けた。
いよいよ、ここから教師一年生の新生活がスタートする。
「人生100年時代だもの。いいじゃん、60歳から先生始めたって」
ここからもう一度、人生をリスタートさせればいい。
がんばれ、ワタシ。行け行け、シニア一年生。そう自分にエールを送りながら、意気揚々と校門をくぐった。
(つづく)



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